と。

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上野千鶴子「みんな平等に貧しくなるしかない」←本当か?

 

実はメインはこれじゃない

後半眠くなったのでそのうち編集しますがこのまま公開します.

さて,先程の記事は実は飾りだ……

chuplus.jp

実はこの記事に対し,「それじゃあ筆者が『敵認定』せずにちゃんと批判しちゃおうじゃあないか」というのがメインです.

そのためには,上野の発言の何処を批判するのか,ちゃんと線引をしなければなりません.ちゃんと読んでちゃんと批判したいです.

あ,これは個人的な意見ですが「ある社会が衰退する」ことは,僕は別に考えてはならないことだとは思っちゃいません.むしろ社会学者として社会の衰退を考えることは重要だと思います.上野千鶴子のこの発言の問題は,「日本の衰退」の根拠がガバガバで,それに至るまでの諸々がガバガバであることです.まあ学術論文でもないのでそういう所を変にボコるこの記事もこの記事でアレですが.

あらかじめことわっておきますが,筆者は主観を批評しません

「上野的にはこう思う」を「こう思うな!」っていうことに何の意味もないからです.

具体的には,

 主観的な観測としては、移民は日本にとってツケが大き過ぎる。トランプ米大統領は「アメリカ・ファースト」と言いましたが、日本は「ニッポン・オンリー」の国。単一民族神話が信じられてきた。日本人は多文化共生に耐えられないでしょう。

という部分は今回あえて無視します(できませんでした).

……あくまで本人が客観的に述べている点を見てみようと思います.

「日本は衰退以外ない」らしいです?

「日本は今,転機」らしいです.何の?

おそらくそれは後の文に出てきます.国語の解説みたいですね.

移民を入れて活力ある社会をつくる一方、社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか、難民を含めて外国人に門戸を閉ざし、このままゆっくり衰退していくのか。どちらかを選ぶ分岐点に立たされています。

 つまるところ,「今の日本は人口が減少している」という問題に立脚して,「日本の衰退」を語るようです.なるほど.

「日本の人口が減少している」と言うのは厚生労働省的にも認めているようです

http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/shakaihoshou/dl/07.pdf

また,国立社会保障・人口問題研究所でも人口減少の問題を指摘しているようです.

http://203.181.211.2/pr-ad/j/soshiki/ipss_j2014.pdf

細かい論文を見なきゃいけないのはおっしゃるとおりですが,

とりあえず,ここでは「日本の人口は減少している」ということを受け入れましょう.

人口維持のためには「自然増」と「社会増」?

人口を維持する方法は二つあります。一つは自然増で、もう一つは社会増。自然増はもう見込めません。泣いてもわめいても子どもは増えません。人口を維持するには社会増しかない、つまり移民の受け入れです。

ここは重要な部分です.なにせここから「衰退」を導いているのですから.

ここでは,批判点を幾つかに分けてお話します.それ以外の批判は他の人に任せます.

「自然増」「社会増」って何?

まず,この2つの概念を整理します.この2つは人口学の概念(らしい)です.

「自然」は出生数と死亡数の差,「社会」は移住者の数(場合によっては転出者との差を取る場合もあるっぽい)を指すようです.

これらは人口の変動に関わる2要素です.人口減少は自然減,社会減あるいは(自然,社会)の人口変動の和が負になる時に起こるようです.

人口学上,人口変動をこの2つの要因で考えることには一定の同意があるようです.

*1

上野が人口減少の原因を自然要因,社会要因の2つで考えていると仮定して,話を進めます.

「自然増」は本当に見込めないのか

上野は「自然増は見込めない」と述べています.それには「社会学的なエビデンスがある」とも.正直そんなエビデンス知らないんですけど.どの論文に人口の自然増が見込めないって書いてるか教えてほしいです.むしろ政策次第で自然増が見込めるかもしれないというエビデンス見つけちゃったくらいです.

自然増の条件は定義に従えば「出生数が死亡数より大きい」ことと言えそうです.

確かに日本は少子化が叫ばれていますし,このことは先進国一般に言えるとも言われます.とりわけヨーロッパでも少子化は社会問題として取り上げられます.

一方でヨーロッパの中には,自然増が起きている国もあります.フランスです.

www.esri.go.jp

この記事の事例では,フランスの出生率の高まりの要因に社会政策を挙げています.

具体的には育児支援が,経済的にもサービス的にも充実しているということを指摘します.事実,人口は近隣ドイツのそれよりも高い比率で増加しているようです.

フランスの出生率2.01 - La France au Japon

在日フランス大使館による報告によれば,自然増による人口増加が認められるとのこと.フランスでは政策によって家族を支援する体制が整っていて,コレが人口の自然増を後押ししていると述べています.

これが将来的にどうなるかは分かりません.誰にも将来は分かりません.フランスは実績として,自然増を達成しているということ,政策がよい効果を与えているらしい,ということは言えそうです*2

 で,日本での人口自然増が見込めないという推論の「社会学エビデンス」は何処ですかね……*3

日本は「社会増」に対応できない?

客観的には、日本は労働開国にかじを切ろうとしたさなかに世界的な排外主義の波にぶつかってしまった。大量の移民の受け入れなど不可能です。

と,上野は述べています.

ここでいう「世界的な排外主義の波」とは何か.

辞書通りの意味であれば「外国人と,それに関わる色々を自国から排除しようという考え方」でしょう.

ヨーロッパでの移民問題や,アメリカのトランプ政権下での外国人排除の潮流を踏まえて,このように述べているのだと思います.

一方で,日本は外国人労働者を受け入れる様になりました.しかし,劣悪な賃金体系や生活環境が問題にもなっています.

さらに言えば,「労働力不足に日系人を充てよう」みたいな発言があったり,外国人に対する日本での労働需要が低かったりと,労働力目的一つをとっても,上野の言うように,外国人を受け入れるということに苦しんでいるようにも見えます.

ただ,これらはぶっちゃけ国内の制度構造に問題があるのであって,実際日本人がどれだけ排外主義であるか,ということには直接は結びつかないように見えます.

「日本人が排外主義だから制度が充実しない」という論も通るんですけど,ちょっと資料が足りないです.なにせ日本の排外主義意識は大体お隣の国に対するもので,近年増えている東南アジアからの移民・労働者や,難民などに対する意識については研究途上だからです.

さて,現状の日本は社会増に対応できないかどうかではまあ「できていない(今後もできないとはいっていない)」と言うほうが近いと結論します.できていない要因は見かけ上不十分な制度整備にあるのであって,「排外主義の波」に飲まれているからとは必ずしも言えないと思います.

ちょっと主観を見てみると「移民は日本にとってツケがでかすぎるので,多文化共生に耐えられない」という主観らしいですよ.だから社会増は無理なんですって.へー.

根拠が主観

無視しますけど.

「人口減少」は「衰退」と繋がるか?

上野は「日本の人口減少」を取り上げ,将来的な「自然増」は見込めず「社会増」には社会が適応できないので,「社会的不公正や治安の悪化」の伴う「活力ある社会」より「外国人を締め出した平和にゆっくり衰退する社会」を実現するべきだ,と述べます.

(日本は自然増が見込めず社会増に耐えられないの)だとしたら、日本は人口減少と衰退を引き受けるべきです。平和に衰退していく社会のモデルになればいい。一億人維持とか、国内総生産(GDP)六百兆円とかの妄想は捨てて、現実に向き合う。

 さらに

日本の場合、みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい。

とも.この辺がキモですね.

上野の言う「衰退」は何を意図しているのでしょう.文脈からすれば,「一億総貧困化」とも言うべき過程を「衰退」と呼んでいるらしいですけど.

この記事では「衰退」を「一億総貧困化」と仮定して話を進めましょうか.果たして「人口減少」が「一億総貧困化」といかに繋がるのでしょう.

……ある人はこう言っています.

 

55-years-old-blog.hatenablog.com

誰だかは知りません(えっ).

この人曰く,「人口少なくても国民一人あたりGDPを日本より高く保ってる国めっちゃあるし人口減少は必ずしも貧困にならなくね?」というお話.

人口減少があっても,豊かな生活は送れるということになる,とも述べています.強く出たなあ.

他の国が如何にしてそれを可能にしているかまでは示していませんが,データはそう言っているらしいですね.

そもそも「総貧困化」なんてものは起こり得ないんですよね*4.国民全体の所得がどんどん下がっていくことを貧困化と考え,「衰退」と定めているなら,それは上野先生,貧困理論を抑えてない.

では「衰退」が「国力の減衰」であるとするならば?

それなら筋は通りそうです.でもそれは人口減少が止められないなら,の話です.

先に述べたように,人口変動には自然要因と社会要因があります.そして,どっちも「政策が上手く行けば」増やすことは(理論上)可能です.ある国でできたからと言って日本でうまくいくとは限らないですけど,政策による介入が上手く行けば,「皆平等に貧しくなる社会を歩むべき」日本にはならないでしょうねぇ.

皮肉にも

私は「制度を動かすのは人」が持論

と仰っていましたが,出生数を上げる制度が整備されれば,上野の主張は崩れます.

……問題はそれがちゃんと整備されるのか,というところですが.

「みんな平等に貧しくなるしかない」という主張には「や,まだどうにかなるっしょw」というくらいの反論はできそうです(弱々しい).

結局「政策・制度次第」かよ!

上野の主張に対する批判としては

  1. 人口の自然増は政策次第で日本でも「見込める」ので,「人口減少不可避」という前提がおかしい.
  2. 「社会増も無理」の根拠としての排外主義には根拠が足りていない.というか根拠が主観.
  3. 人口が少ないからと言って一人ひとりが貧困になるわけではない.
  4. ところで何を以て「衰退」と成すの?

というところです.マルサス的にも人口の抑制はむしろ貧困や飢餓の抑制に効くらしいですよ.

致命的なのは,「日本の緩やかな衰退」を主張する根拠が,今回無視した主観に依るところです.確かにヨーロッパを中心に移民の受け入れ,難民保護は議論になりますし,排外主義的な方針が目立ちますが,そもそも「排外主義」が道徳的に善いものとして受け入れられているわけではない以上,何らかの形で彼らを社会に包摂する流れになると思います(甘い希望).

そもそも日本で移民や難民が議論されるのは近年の話であって,国も「これから移民とか受け入れていく必要はあるなあどうしよう」というところだと思われる中,「日本が多文化共生社会に適応できない」と主張する挙句,その根拠が「ツケがでかすぎる」という野獣先輩新説シリーズもびっくりな主観的基準なので,社会増が無理かどうかは「いや,わかんねっすけど……」となります.

筆者は移民や難民,それを取り巻く政策や各国の対応,国民の意識等には詳しくはないのでコレ以上は言えません

上野の「社会保障制度の充実」という社会民主主義的(北欧諸国みたいな)な方向性については別段反論はないです.高負担・高福祉の社会で国が回っているなら,それはそれで良いとは思います.

でもその社会にも色々問題があるのです……

でも……?

「社会がなんやかんやで間違いなく衰退する」という局面に直面した時,社会がどう変化するのか,という思考実験は面白いと思います.筆者はTwitterでこの点だけは評価してました.

社会過程の中で,社会がどう形成され,発達し,成熟するのか,というところまでは考えが及びます.しかし,誰も「社会はどう衰退するのか」について議論していないようにも思われます.

宇宙の始まりと宇宙の終わりが議論されるのと同じくらい,社会の始まりと,社会の終わりについても議論されて良いんじゃないですかね.

勿論抽象的な話です.今の日本がそういう過程にあるのかについては別途データなりなんなりで示す必要があります.ある社会S(SocietyのSであってSyakaiのSではない)が衰退する場合,どのようなシナリオが考えられるか,という話であれば,今回の記事は何かしら示唆を与えるのかもしれません.

 

*1:以下はその一例です.

http://www.lij.jp/html/jli/jli_2015/2015spring_p061.pdf

https://www.jstage.jst.go.jp/article/tga1948/16/1/16_1_7/_pdf 

*2:厳密には政策が導入される前と後で,様々な変数を統制し比較した上で結論しなければなりません(ほら,DiDとかそういうの使ってね).

*3:筆者の所属する社会学界隈では「社会の現状はこうであるが,それはコレコレという現代の情勢が前提にあるので,その前提を外しかねない将来を推論することは危険」と教わりました.

*4:現在先進国で広く用いられてる概念は「コレくらいの所得がウチの国で暮らせるギリギリの生活水準だけど,その水準以下で暮らしてる人たちー!君たちは『貧困』でーす!」という基準(相対的貧困)なので,どんだけ国民の所得全体が下がったところで,その基準も同時に下がるので,「皆貧しい!」って状態はありえないんじゃないんですかね.

上野千鶴子「みんなで貧しくなろう」社会学者「敵認定!!!」←は?

 「悪い発言したら『敵認定』です」?

思い出したかのようにこの記事の話をします.

chuplus.jp

この記事の中で,社会学者の上野千鶴子は「平等に貧しくなろう」という主張をしました.

 

勿論この極論は大炎上です.そりゃ当然ですよね

 

「実を言うとこの国はもうだめです.

突然こんなことを言ってごめんね.でも本当です.

近いうちに排外主義の波がやってきます.それが終わりの合図です.

程なく多文化共生に耐えられなくなるので気をつけて.

それが止んだら少しだけ間を置いて,終わりが来ます.」

 

つって「終りが来るので犠牲の少ない軟着陸の仕方を求めるべきだ」と主張するのですから.しかしながら筆者個人はある人のツイートに「は?」と思いました.

 ……この人も一応社会学者なんですよね.学者が学者を「敵認定」するという構図,筆者はここに界隈の闇が詰め込まれているなあと思います.社会学の嫌いなところですね.

このツイートの後でレイシズム植民地主義批判に立脚した根拠付けを試みていますが,上野は「日本が衰退するしかないのだから犠牲を出さないように『衰退』する方向に舵を切るべき」という主張の根拠(まあこれがガバガバなんですけど)の一つに移民政策の失敗可能性を指摘しているので,主張そのものへの批判としてはお門違いだと思います.

同じ社会学者なら「敵」認定などせず,ちゃんと学術的に,根拠を持って批判してほしいです.それができない時点で学者の風上にも置けないですね.

 

……続く.

多様性って何?というアレ

最近話題ですね,これ.

www3.nhk.or.jp

 

これに対しての意見です.

 

社会学をやっている身からすると,このニュースは「多様性」と「偏見」という部分で面白い話だと思うんですよね.

我々がいま「多様性を認めることが社会的あるいは道徳的に正しいことだ」という価値観を持っているのはなぜなのかを考えると,なぜなんでしょうね.

奴隷解放運動という国家間,身分制の撤廃による身分間,公民権運動による人種間,そして近年の性別間の違いを,社会関係における優劣の基準としないようにしていく動きがあるように思われます.共通しているのは「我々が【選べない】要素を我々が選べるモノに【選ばれる】基準にしない」ことなのだと思いますが.

我々が【選べない】要素は,生まれた場所,人種,性別……あらかたコンプリートされているのでは?とも思われます.勿論「まだ完全に解決されていない」事は分かっています.しかし社会において,上のような出来事に2つの相反する反応がある事も認めねばならないのが多様性です.【選べない】要素による差別が完全に消える事は,ある意味【選べない】要素による差別を認めようとする人間を多様性の外に追いやるとも解釈されましょう.多様性を認めるとは,難しいことです.そこに道徳や倫理によって方向付けを行い,それらに照らして認められる多様性のみが生き残る,それを「正しい」として考えずに生きるのがきっと楽なのでしょう.私には死ぬまでできません.

……話を戻しましょう.この「機会の平等」化とも言うべき多様性の認容の次は何が来るのでしょうか.

 

AIの台頭による労働市場,労働構造の変革と機会の平等が達せられた先に,どのような不平等が考えられるのでしょう?

……そういう話をする暇が,ほしい.そういう時期です.

 

「当たり前を疑う」ということ

……タイトルの通り,詰まるところ,「当たり前を疑う」という行為は,どうやら誰にでもできる行為ではないらしいのです.

「当たり前を疑う」ためには,まず自分がどんな「当たり前」に塗れているのかを説明しなければならないのです.例えば男はよく働き,女は家庭に入るべきだという「当たり前」なのかもしれない,あるいはまた,「年上には無条件で敬語を使わなければならない」のかもしれない.もしかしたら「就職を希望する会社の社長のTwitterを見る」ことが,「当たり前」なのかもしれません.

でも自分がどんな「当たり前」に塗れているのかを自分で理解するには一人じゃ足りません.精神的に.もう一人「自分を見る自分」が必要になります.

 

意識が高い話か?と思っている皆さん.安心してください.くだらない話です.

 

「自分が呼吸している」って思いながら呼吸をすると,暫くの間意識的に呼吸しないと息がつまりませんか?怒りを覚えた時「自分は怒ってるな」って思うだけで落ち着きませんか?彼らです.彼らが「自分を見る自分」です.

そいつが勝手にでしゃばり始めると,僕のような人間になります.

 

「自分を見る自分」が居ると,何でもかんでも簡単には受け入れられなくなります.「貧乏なのはその人が怠惰だからだ」という常識を疑った結果卒論が書け,修論も書けそうな自分としては,研究しているときは重宝します.一方で,社会生活に適応するには少し邪魔な存在になります.

 

みなさんも僕も,何らかの「常識」や「正しいと思う何か」に従って生活していると思います.一方で,みなさんの従うそれらがなぜ「正しい」のかについて,思いを巡らせる人は多くはないと思います.なぜなら「それは『正しくあるべき』もの」だから.

「正しくあるべき」ものの「正しさ」を疑うと?……

……昔,どこかの誰かが,こういう話をして盛り上がったなあという事を思い出しつつ.

 

例に就職活動を挙げましょう.色々な社会人の話を聞くと,どうやら「働く」ということは「正しいこと」であるらしいです.会社に貢献し社会に貢献する.そして自己を成長させる.これらは「正しいあり方」らしく,疑う余地のない「当たり前のもの」だと.

僕には「働くことは正しいこと」という,普通の人が無条件で受け入れるこの「当たり前」を受け入れる事は難しいのです.「そうだ,それは正しい」と納得する自分に対し「なぜ働くことが正しいといえるのか?」という問いを「自分を見る自分」が突きつけるからです.なぜ?なぜ……?

社会人にこれを問えばきっと激昂するでしょう.

「そんな当たり前のことに疑問を持つのはお前が怠け者だからだろう!」と.

でもきっと「当たり前に疑問を持つ」ことは「悪いこと」ではないのでしょう.保証はありませんが.彼ら・彼女らは怖いのです.「当たり前を疑う」という行為は,自分が信じる物を揺るがす何か大変な行為であると思いこんでいるのかもしれません.あるいは,「当たり前を疑う」と組織に消されるのかもしれません.

 

「自分を見る自分」を持てば「その当たり前,本当に当たり前?」と問うてきます.こいつと上手く付き合えてしまうと僕のようになり果て,こいつを殺すと「当たり前」にすがることができます.どちらが「幸せ」なのでしょう?というか幸せって何?人と違う思考ができる事が幸せを保証するもの?じゃあ不幸?不幸って何……?

 

就職活動中,「なんで君たちはそんなに当たり前を信じられるの?」という気持ちに何度もなったので,ここに書きなぐっておきます.僕と同じような気持ちになった皆さん.安心しましょう.我々は少なくとも「間違ってはいない」のですから.

こんなのやってました

ご無沙汰しすぎました.きぬいとです.

年度末でかつ進路関連の諸々に追われ,さらに研究報告で「その結果の解釈は無理がある」という事を突きつけられた結果,更新が途絶えてました.

 

研究では統計学を使っていて,分析にはR言語を使っています.

その関係で技術的な勉強も兼ねて,エンジニア向けの情報共有サイトとかを活用しています.今までは見る専門だったんですが,最近は発信する立場もちょっとやってます.

以下いろいろです.

qiita.com

qiita.com

 

修論の内容も決める必要があるので,決まったらさり気なくここに書き込もうと思います.

あ,あけましておめでとうございました.

「働かざるもの食うべからず」の時代は終わった?

zasshi.news.yahoo.co.jp

 

こんな記事がありました.たしかに僕も明日の飯に困るほど生活に困窮しています.......これは今回の話にあまり関係しないんですけど.

一般に貧困は,失業をきっかけにもたらされることは誰が見ても「それはそう」という帰着になるんじゃないかなあと思います.一方で,一時期「ワーキングプア」というワードが取り上げられたように,労働していても貧困の状態にある人々の存在も,たしかにあります.

たとえば非正規労働者,特に女性の非正規労働者ワーキングプアになりやすいです.日本では母子家庭の貧困リスクは普通の何倍も高いんですよね.詳しくは阿部彩さんが書いてる『子どもの貧困』(岩波新書 2008)とか読んでみてもいいかもしれません.

「働かざる者食うべからず」なんてことわざがあるように,昔から労働は人間の生活にとって重要な行為に位置付けられていました.日本の憲法で「国民の義務」の一つとされ,いろいろな宗教でも美徳となされていますし,労働ってすごい大事な行動だったらしいですね.

今の我々の価値観はどうなのでしょう.労働が大事な行為だという認識はどこまで認知されているのでしょう.

人によっては表現・創作活動は労働ではないと言う人もいるかもしれません.ですが彼らはそれで生活ができています.Youtuberは労働者でしょうか?賛否の分かれる存在だと思います.

そして,彼らのような生活の仕方を良しと思わない人もいる.世知辛いです.仮に彼らが労働をしていないとするならば,「働かずとも生きていける」ことになりますね.

その上,2010年代は人工知能の発展が目覚ましく,「人工知能によって労働が奪われる」とか危機感を抱く人々も現れる始末.

 

すなわち,我々は改めて「働く意味」を考えなければならない時代を迎えた.なんてことはもはやいろんな人が言っています.

就職活動をしていると「働く意味とは?」みたいな問いには幾度となく直面するでしょう.若者はそれに対して「成長」「自己実現」等を並べます.なんて抽象的なのでしょう.どれだけ履歴書に「どんな成長か」を書いても,その具体性は「働く」という具体的な行為に届きません.

人類の歴史での労働は,奴隷にとっても近代の労働者にとっても「働けば生きられる」,「働かなければ死ぬ」というような(奴隷は「働いても死ぬ」状況下でもあったのでしょうが……),ともかく「生きるため」に必要不可欠な行為であり続けたのだと思います.

産業革命のときも,おそらく「機械に労働を奪われる」という危機があり,労働の意義が問い直されたものの,経済構造の変容という方法でどうにか社会全体では「生きるために働く」というテーゼを崩さずに対応できたように見えます.

現代はどうでしょう.経済は発展し,特に先進国家では社会保障制度も充実し,インフラが整備され,インターネットでなんでもわかり,AIが会話してくれる時代です.今までの働き方とは違う方法で生きる道を見つけることができる時代に,わざわざ「労働する」ということにどのような意義を見いだせるのでしょう.

必ずしも生存を保障しなくなった現代の「労働」という行動には,一体何の価値があるのでしょう.これまで人類は,あの手この手で「生きるために働く」というテーゼを守ってきたはずなのに,その英知と技術によって,みずから「働く」ことの優先度を下げてしまったのではないでしょうか.「労働」の価値の変容は,既存の社会秩序を大いに揺るがす事態になっているのではないかと考えます.

問題は,労働という行為の価値の変容が,いかに社会秩序を揺るがし,そして社会はいかにして安定した秩序を再構築するのかという部分です.

たとえば現代は,(事実そうではないのに)「働かざる者食うべからず」という価値観が共有されています.その価値観によって我々は労働をし,「食う権利」を得るのですが,その実食えないという不条理にぶつかります.

一方で,働く以外の方法で食っている人々も増え始めます.すなわち「食う権利」の規制緩和です.規制や規則の緩和は,人々の欲求を増大させることにもつながります.「ぼくもYoutuberになりたい」「イノベーションで勝負したい」「ホットなトピックにコミットしたい」……いろいろな「食う権利の得方」が生まれます.

そしてそうした方法で「食う権利」を得ないようにするために,改めて規制しようとしてもうまくはいきません.社会全体として「食う権利の得方」の制御ができなくなります.

フランスの社会学者で社会学という学問そのものの祖としても知られるデュルケームは,こんな状態を「アノミー」と名付けました.比喩を申せば「病気になった社会」でしょうか.

 

……もしかしたらこの時代は,デュルケームのいうアノミーの状態にあるのかもしれません.社会秩序が不安定になり,我々が「生きるため」に必要だと信じられてきた「労働」は,もはや必ずしも必要ではなくなってきているかも知れません.行き過ぎた結論ですが.

そうした秩序の不安に対し,ベーシック・インカムなど,「いっそ国民全員に1か月のお小遣いあげちゃえばいいんじゃない?」みたいな発想の構想は進んでいるようです.オランダのユトレヒトでは実験的に導入されていますし,北欧でも実験的な導入を議論しているらしいです.

「労働」という行為が「趣味」レベルになる時代もそう遠くはないのかもしれません.

社会ってなんだ

ここ最近ずっと「社会ってなんだ」って考えていて,某所でも口癖のようにのたまっているわけですが,考えの整理のためにここに書き残しておきます.

先に申し上げると,社会学の世界でも「社会とは何か」に対して明確に回答をもたらしてくれる文献はそうそう多くはありません.ある文献では「人の集合」だとか,それに加えて「個人間の相互作用」があるとか,そういう感じの定義めいたものはあるようですが,これ!!!!!って感じのものは探す限り多くはないです.多分,社会問題を扱う上では社会そのものの定義付けに大きな意義がないからなのではないかと思いますが……

ここで言葉の定義(というほど厳密なものでもないですが)をしておきます.

「社会○○」と,「」つきで用いる場合の「社会」は,労働できることを条件に「そこに出ることができる」構造だと定めます.

「」なしで用いる社会は,人が集まり,相互作用を繰り返して構築・変化する”何か”と定めます.労働できなくても社会の構成員と考える場合には社会を「」なしで用います.

長い文章が読めない人のために最初に言っておくと

学問としての社会と

大衆が認識する「社会」は

違う

というのが今回のお話の結論です.以下は読みたい人だけ読んで下さい.

 

 

1.「社会に出る」「社会人」……?

「社会人」,あるいは「社会の一員」という呼び方に違和感を見出していたとき,こんな記事を見つけました.

yamayoshi.hatenablog.com

やっぱり「誰かしら引っかかる人いるよなあ」というのが正直な感想でした.

僕も「『社会』って言っているのに,その対象が『労働者』だけを指している」ことになんか変な感覚がします.

 

慣用的に用いられているから,社会学で定義されている「社会」とは違う(そう,それはまるで,世間で使われている「宇宙」と数学概念としての「宇宙」が違うように)と納得させてもいいのですが,ここであえて,「大衆が認識する『社会』とは何か」ということに妄想を付け加えていこうと思います.

 

Wikipediaソースはマジでアレなんですけど,Wikipedia先生によれば,「『社会人』に対応するような外国語はほとんど見られない」といいます.英語圏だと,それに対応する言葉には労働者,市民などがあるように,ある程度「どの範囲の『社会』で『個人』が認識されるか」で言葉を使い分けているような印象……

一方で,「職を得て,実際に労働者として参入すること」を「社会に出る」と言うと思います.ここでも社会に出る条件は手に職があることです.また,働く女性が増えていくことを「女性の社会進出」というような言葉もあるように,少なくとも日本では「社会には労働なしには『出られない』」という認識が,日本社会ではあるのかもしれません.

また「社会に出る」という言葉は,「社会」を「外」と解釈すれば,何らかの「内」の存在を,日本社会では暗に定めているように思います.あるいは「社会」以外に,「社会」と接するような,何らかの構造があって,その構造から「社会」へ出るという認識があるのかもしれません.その構造とは,一体何なのでしょう……

 

2.「社会に出る」前,どこにいたのか?

「社会人」「社会の一員」として「社会に出」た友人たちは,みんな労働をしています.学生は一般に「社会人」とは言われないし,老人も,あるいは障害を持っていても「社会人」と呼ばれる人は多くはないでしょう.

労働は社会で起きる相互作用の一つに過ぎません.にもかかわらず,労働は社会の代表として「社会」を規定しているように思われます.

では,我々は「社会に出る」前,どこにいたのでしょう.

 

2.1.家族

多くの場合,人は一人では生まれません.子どものうちは家族という社会で育ちます.

また,広く認識のあること(だと信じたい)として,「男は仕事,女は家庭」という価値観が存在した時代があり,女性は一般に家での仕事をすることが慣例でした.

家の「内側」から,様々な議論や主張を経て,その「外側」への進出を勝ち取った,という意味合いでは,とりわけ女性は「社会に出る」前,家族にいたのでしょう.

 

2.2.学校

日本では中学校までは義務教育です.嫌でも通わせられます.通う人が持つのは「権利」で,指導者や保護者が持つのは「義務」……とか面倒なことはやめておきましょう.

「人が集まり,相互作用をする」という意味では,学校も社会です.より厳密(?)に言えば,社会の相互作用により構築された社会,と言うこともできるでしょうか(ややこしい)

先に述べたように,一般に「学童」「生徒」「学生」は「社会人」とは呼ばれません.職業体験やアルバイトで労働を経験してもそれらは「社会勉強」と呼ばれますし,どうやら「社会の一員」として認められているわけではなさそう……

しかしお勉強をすることで「社会に出る」ために必要な事柄を学び,卒業という資格をもって「社会の一員」と認められるというならば,我々は「社会に出る」前,学校にいたとも言えるでしょう.

 

3.「社会」は「社会人」で構成される?

我々は「社会に出る」前,家族や学校という,世間の認識では「社会」ではない場所で過ごしてきたようです.

家族や学校という,広い意味では社会と呼べる場を「社会」に含んでいない場合,人々は「社会とは,社会人で構成されている」という認識を持つようになるのではないかと,僕は思い至りました.至ってしまいました.

具体的には,「社会人」すなわち労働者によって構成される場が「社会」であり,それ以外は「社会」ではなく家族や学校という別の場であるという認識が広く取られているのではないかという思索です.

例えば無職の人が仕事を見つけて再び労働することに対して,我々はしばしば「社会復帰」と用います.つまり無職は「社会」から脱落していると解釈されていることを意味すると僕は感じます.

障害者を例に取ると(かなりセンシティブですが),彼らの労働を支援することも「社会進出への支援」と呼ばれると思います.

先にも述べたように女性が労働することも「女性の社会進出」と呼ぶように,「社会」の構成員となるためには「労働」は必要条件であるように思われます.

 

4.「社会」からの排除

長々と書いてきましたが,現代の社会において「死ぬべき人間」を定める事はできません.「働かざる者食うべからず」とは言いますが,労働をしないことを食わせない理由にできるような時代ではないことはなんとなく分かると思います.

「みんなが人間らしく尊厳を持って暮らせるしゃかい」は理想となっています.難しい言葉を用いれば福祉国家とかそういう感じでしょう.社会の構成員であれば労働できない人でも暮らせるように支援するのが,現代の社会のあり方であるように思います.何らかの理由で労働ができない人々には「保険」や「年金」など,制度という形で生活保障がなされることもこれを裏付けているでしょう.

一方で,我々はしばしば「社会人」という言葉からは「労働している人」を連想するように,労働が「社会」の構成員になるために求められる最低限基準になっているように見えます.つまり,社会の構成員であっても「社会」の構成員ではない人がいるということです.

社会とは相互作用の場であると定めました.この相互作用には公的制度を定めることはもちろん,個人の価値観が集積して成る私的な制度など,様々な要素があります.公的制度が労働しない人も社会の構成員として認めても,個人の価値観の集合が「社会」の構成員と認めなければ,きっとそこには差別や格差が生じるでしょう.

我々は無職を恥じ,ホームレスを見れば嫌な顔をしがちで,大学生を見れば遊んでばっかりだと思います.そうして「『社会人』たる我々は『社会』を構築して生きている.無職やホームレスや学生は『社会』の構成員として認めない.なぜなら労働をしないからだ」という価値観が共有されているのであれば,社会問題が解決しないのもわかります.

貧困や無職の人々が「社会復帰」したくてもできない状態や,そうなるまでのプロセスを,ヨーロッパでは社会的排除(Social Exclusion)として取り上げます.しかし近年では政策として社会的排除対策をしようという流れでも,労働を主軸に添えた対策に偏っているという批判もなされています.つまるところ,労働では解決しきれない社会問題が存在する可能性が議論され始めている,ということです.

僕はこの裏には人々が「社会」というものをどう見ているかにも起因するものだと思います.多くの社会の構成員が「社会とは労働者のものだ」と認識していれば,制度もそれに追随し,労働者に有利な制度を構築するでしょう.そうして「本来社会の構成員である」はずの人々は「社会」から排除されてしまう……というお話です.

社会学としてここに如何なる貢献ができるでしょう.社会学は社会の意味をあまり明示的に問うて来ませんでした.また,大衆が社会をどう定義付けているのかにも,あまり目を向けられていないように思われます.「今の社会はこうだと思いますか」のような感じで,社会の定義をその人の「中」にゆだねている節があるということです.個人的にはそれでいいのか,と思います.人が「社会」という言葉からどういう世界を想起するのかは,変数として統制されるべき要素であるように思います.

理論体系としての社会の定義と,社会の構成員が認識している「社会」との間のズレに,少し意識を払ってもバチは当たらないんじゃないでしょうか.