と。

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社会ってなんだ

ここ最近ずっと「社会ってなんだ」って考えていて,某所でも口癖のようにのたまっているわけですが,考えの整理のためにここに書き残しておきます.

先に申し上げると,社会学の世界でも「社会とは何か」に対して明確に回答をもたらしてくれる文献はそうそう多くはありません.ある文献では「人の集合」だとか,それに加えて「個人間の相互作用」があるとか,そういう感じの定義めいたものはあるようですが,これ!!!!!って感じのものは探す限り多くはないです.多分,社会問題を扱う上では社会そのものの定義付けに大きな意義がないからなのではないかと思いますが……

ここで言葉の定義(というほど厳密なものでもないですが)をしておきます.

「社会○○」と,「」つきで用いる場合の「社会」は,労働できることを条件に「そこに出ることができる」構造だと定めます.

「」なしで用いる社会は,人が集まり,相互作用を繰り返して構築・変化する”何か”と定めます.労働できなくても社会の構成員と考える場合には社会を「」なしで用います.

長い文章が読めない人のために最初に言っておくと

学問としての社会と

大衆が認識する「社会」は

違う

というのが今回のお話の結論です.以下は読みたい人だけ読んで下さい.

 

 

1.「社会に出る」「社会人」……?

「社会人」,あるいは「社会の一員」という呼び方に違和感を見出していたとき,こんな記事を見つけました.

yamayoshi.hatenablog.com

やっぱり「誰かしら引っかかる人いるよなあ」というのが正直な感想でした.

僕も「『社会』って言っているのに,その対象が『労働者』だけを指している」ことになんか変な感覚がします.

 

慣用的に用いられているから,社会学で定義されている「社会」とは違う(そう,それはまるで,世間で使われている「宇宙」と数学概念としての「宇宙」が違うように)と納得させてもいいのですが,ここであえて,「大衆が認識する『社会』とは何か」ということに妄想を付け加えていこうと思います.

 

Wikipediaソースはマジでアレなんですけど,Wikipedia先生によれば,「『社会人』に対応するような外国語はほとんど見られない」といいます.英語圏だと,それに対応する言葉には労働者,市民などがあるように,ある程度「どの範囲の『社会』で『個人』が認識されるか」で言葉を使い分けているような印象……

一方で,「職を得て,実際に労働者として参入すること」を「社会に出る」と言うと思います.ここでも社会に出る条件は手に職があることです.また,働く女性が増えていくことを「女性の社会進出」というような言葉もあるように,少なくとも日本では「社会には労働なしには『出られない』」という認識が,日本社会ではあるのかもしれません.

また「社会に出る」という言葉は,「社会」を「外」と解釈すれば,何らかの「内」の存在を,日本社会では暗に定めているように思います.あるいは「社会」以外に,「社会」と接するような,何らかの構造があって,その構造から「社会」へ出るという認識があるのかもしれません.その構造とは,一体何なのでしょう……

 

2.「社会に出る」前,どこにいたのか?

「社会人」「社会の一員」として「社会に出」た友人たちは,みんな労働をしています.学生は一般に「社会人」とは言われないし,老人も,あるいは障害を持っていても「社会人」と呼ばれる人は多くはないでしょう.

労働は社会で起きる相互作用の一つに過ぎません.にもかかわらず,労働は社会の代表として「社会」を規定しているように思われます.

では,我々は「社会に出る」前,どこにいたのでしょう.

 

2.1.家族

多くの場合,人は一人では生まれません.子どものうちは家族という社会で育ちます.

また,広く認識のあること(だと信じたい)として,「男は仕事,女は家庭」という価値観が存在した時代があり,女性は一般に家での仕事をすることが慣例でした.

家の「内側」から,様々な議論や主張を経て,その「外側」への進出を勝ち取った,という意味合いでは,とりわけ女性は「社会に出る」前,家族にいたのでしょう.

 

2.2.学校

日本では中学校までは義務教育です.嫌でも通わせられます.通う人が持つのは「権利」で,指導者や保護者が持つのは「義務」……とか面倒なことはやめておきましょう.

「人が集まり,相互作用をする」という意味では,学校も社会です.より厳密(?)に言えば,社会の相互作用により構築された社会,と言うこともできるでしょうか(ややこしい)

先に述べたように,一般に「学童」「生徒」「学生」は「社会人」とは呼ばれません.職業体験やアルバイトで労働を経験してもそれらは「社会勉強」と呼ばれますし,どうやら「社会の一員」として認められているわけではなさそう……

しかしお勉強をすることで「社会に出る」ために必要な事柄を学び,卒業という資格をもって「社会の一員」と認められるというならば,我々は「社会に出る」前,学校にいたとも言えるでしょう.

 

3.「社会」は「社会人」で構成される?

我々は「社会に出る」前,家族や学校という,世間の認識では「社会」ではない場所で過ごしてきたようです.

家族や学校という,広い意味では社会と呼べる場を「社会」に含んでいない場合,人々は「社会とは,社会人で構成されている」という認識を持つようになるのではないかと,僕は思い至りました.至ってしまいました.

具体的には,「社会人」すなわち労働者によって構成される場が「社会」であり,それ以外は「社会」ではなく家族や学校という別の場であるという認識が広く取られているのではないかという思索です.

例えば無職の人が仕事を見つけて再び労働することに対して,我々はしばしば「社会復帰」と用います.つまり無職は「社会」から脱落していると解釈されていることを意味すると僕は感じます.

障害者を例に取ると(かなりセンシティブですが),彼らの労働を支援することも「社会進出への支援」と呼ばれると思います.

先にも述べたように女性が労働することも「女性の社会進出」と呼ぶように,「社会」の構成員となるためには「労働」は必要条件であるように思われます.

 

4.「社会」からの排除

長々と書いてきましたが,現代の社会において「死ぬべき人間」を定める事はできません.「働かざる者食うべからず」とは言いますが,労働をしないことを食わせない理由にできるような時代ではないことはなんとなく分かると思います.

「みんなが人間らしく尊厳を持って暮らせるしゃかい」は理想となっています.難しい言葉を用いれば福祉国家とかそういう感じでしょう.社会の構成員であれば労働できない人でも暮らせるように支援するのが,現代の社会のあり方であるように思います.何らかの理由で労働ができない人々には「保険」や「年金」など,制度という形で生活保障がなされることもこれを裏付けているでしょう.

一方で,我々はしばしば「社会人」という言葉からは「労働している人」を連想するように,労働が「社会」の構成員になるために求められる最低限基準になっているように見えます.つまり,社会の構成員であっても「社会」の構成員ではない人がいるということです.

社会とは相互作用の場であると定めました.この相互作用には公的制度を定めることはもちろん,個人の価値観が集積して成る私的な制度など,様々な要素があります.公的制度が労働しない人も社会の構成員として認めても,個人の価値観の集合が「社会」の構成員と認めなければ,きっとそこには差別や格差が生じるでしょう.

我々は無職を恥じ,ホームレスを見れば嫌な顔をしがちで,大学生を見れば遊んでばっかりだと思います.そうして「『社会人』たる我々は『社会』を構築して生きている.無職やホームレスや学生は『社会』の構成員として認めない.なぜなら労働をしないからだ」という価値観が共有されているのであれば,社会問題が解決しないのもわかります.

貧困や無職の人々が「社会復帰」したくてもできない状態や,そうなるまでのプロセスを,ヨーロッパでは社会的排除(Social Exclusion)として取り上げます.しかし近年では政策として社会的排除対策をしようという流れでも,労働を主軸に添えた対策に偏っているという批判もなされています.つまるところ,労働では解決しきれない社会問題が存在する可能性が議論され始めている,ということです.

僕はこの裏には人々が「社会」というものをどう見ているかにも起因するものだと思います.多くの社会の構成員が「社会とは労働者のものだ」と認識していれば,制度もそれに追随し,労働者に有利な制度を構築するでしょう.そうして「本来社会の構成員である」はずの人々は「社会」から排除されてしまう……というお話です.

社会学としてここに如何なる貢献ができるでしょう.社会学は社会の意味をあまり明示的に問うて来ませんでした.また,大衆が社会をどう定義付けているのかにも,あまり目を向けられていないように思われます.「今の社会はこうだと思いますか」のような感じで,社会の定義をその人の「中」にゆだねている節があるということです.個人的にはそれでいいのか,と思います.人が「社会」という言葉からどういう世界を想起するのかは,変数として統制されるべき要素であるように思います.

理論体系としての社会の定義と,社会の構成員が認識している「社会」との間のズレに,少し意識を払ってもバチは当たらないんじゃないでしょうか.