と。

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日本での貧困に関する言説による"推察"

はじめに

就職するのでどうせ研究することもない(が,雑誌論文として世に出るかもしれない)し,自分の研究に関連しつつも修論では捨象したことについてまとめておく.

私が卒業論文修士論文で取り扱ったのは「社会的排除」とくに「貧困」の一側面である.テーマ的にも実際に執筆した成果的にもありふれており,別段面白いものでもないのだが,それはそれ*1

捨象したこととは,突き詰めて言えば「貧困の定義」である.よく絶対的貧困相対的貧困がある,ということはWikipediaを見ればわかる.絶対的貧困はおいておいて,相対的貧困の話をすると「相対的貧困は本当に貧困なのか?」という話で賛否両論である.今回はこの話について,人の言説を質的に見ることで考えてみたい.

インターネットの海を漂うこの記事が,どんな知識背景の人に読まれるかわからないので,とりあえずレギュレーションを述べておく.

この記事にあることが貧困の全てではない

この記事での考察は,「貧困」という社会現象の全てを記述・説明するためのものではない.そもそも,(これは貧困に限らず社会にあるあらゆる概念に対していえるのだが)貧困という社会現象に対して良い記述・説明を与える理論について同意が得られているわけではない*2*3

したがって,ここで推察する事柄を世の中の貧困に広く適用して考えることは賢い人間がすることではない.あくまで修士学生という若造が,自身の研究の残り物で考えた「論考の残滓」であることを忘れずに読んでいただきたい.

具体的な議論ではない

この記事は「どうすれば貧困がなくなるか」という問いに答えるものではない.この点で「実際に問題解決のために動く」ことからも「政策を問う」ことからも遠い.「貧困」を純粋に社会という場で発生する「現象」として,学術的対象として貧困を捉えようとする試みである*4.「今ある貧困をどうにかする」ための議論ではない.

つまるところ,ここに書くことはまさに「机上の空論」である.

 

……これくらい書いておけば分かる人にはわかってもらえるだろうか.

正直ここから長いので続きを読む機能を使う(最初から使え).

 

Wikipediaなどで「貧困」を調べるだけでも,最初の段階で「貧困の基準」について記述されている.

絶対的貧困」「相対的貧困」という二つは有名であるし,学問の間ではその基準について絶え間なく議論が続いている*5

私も統計を使った研究*6でそのあたりの話に紙面を割いたが,この記事で論じるのはそういうものではなく,実際に日常生活する人びとが,どのような人を貧困と捉えているのか,という部分にある.

この問いに対する答えの一部を覗くために,2017年2月12日にNHKが「子どもに広がる「見えない貧困」 | NスペPlus」というタイトルの番組を放送した際の反応のうち,取り上げられた貧困世帯に困惑,否定的な意見を述べるユーザをとりあげた.以下のTweetsを見て欲しい.

 たとえばこのユーザは番組で取り上げられた「貧困」世帯が,靴やシャツ,本を買えない一方でゲーム機を所有していることに懐疑している.

このユーザは自身の過去の経験を示し,「貧困世帯」での行動として扱われていることに疑問を抱いている.現代の貧困世帯の表象として取り上げられた自分の子供時代に困惑しているとも読み取れる.

 

  この3ユーザは共通して自身で「貧困」を定義している.このTweetからは推論する以外にないが,少なくとも彼らは「交際費に2万円出す」「美容室に行く」「iPhoneを持つ」という条件は「貧困」とはあてはまらないと認識しているようだ.

興味深いのは2人め,3人めのユーザの「真の貧困」や「贅沢病」という言葉である.このユーザはおそらく,日本は経済的に恵まれすぎていることを問題視している.一方で「真の貧困」という言葉を使っているユーザにとって,「真の貧困」とは一体何なのか.

彼らにとっての「貧困」とは?

上のTweetsでは彼らが何を「貧困」と捉えているかまでは見られない.

一方で,自身の考える「貧困」の定義を示しているユーザもいる.

 このユーザは,自身の考える「貧困」を見た目で判別する.「美容院も床屋も行けず、髪の毛はボサボサで、服は破れてボロボロで…」なければ「貧困じゃない」と断言する.故に「日本の貧困の定義はおかしい」とも断じている.

貧困研究,特に統計的・国際的な比較を前提にして捉えようとする場合,指標は限られる.OECDでは指標の一つに世帯の等価可処分所得で測定された相対的貧困率を挙げている*7

ユーザの中ではこうした基準は十分ではないようだ.過大解釈であるかもしれないのであらかじめ譲歩しておくが,彼らの中では「見た目から貧困かどうか分かるはずである」という認識があるとも考えられる.

その前の「過去の自分」と比較していたユーザにも共通することであるが,こうしたユーザにとっての貧困は「所得水準」ではなく「物質的な剥奪」に近いものだと私は解釈する.つまり,彼らの中では「所得が低くとも我々が持てるものを『持っている』ならば貧困ではない」という考えによって貧困が定義されている.

政府と人びととの間で,「貧困」に対する認識が解離している可能性はあるだろう.

「貧困」の言説から視えること

ここでの推察では,質的な解釈を通して,一部の層の貧困観について検討した.彼らを取り上げた理由は,NHKの番組で定められた貧困(相対的貧困)を「貧困じゃない」と断じているところにある.別ユーザの反応は,あくまで番組内で定められた貧困をベースにした反応であるが,「貧困じゃない」と断じるこのユーザたちの言論を詳細に検討することで,客観的指標ではない(ある意味では社会学的な)貧困が持つ社会的な意味のようなものを見出そうと試みた.*8*9.彼らは程度の差こそあるものの,「貧困層は物質的に剥奪されていなければならない」という考えを持っていることが推察される.

なぜ,彼らはこのような考えを持つに至ったのだろう.一つの考えは「子供の頃」を思い出して主張するユーザがいるように,「自分が経験した」ことを基準に貧困を定義しているようである.

心理学では「適応機制」という言葉が存在するが,ここでもそれによって解釈することができるのかもしれない(彼らが貧困というレッテルに良い印象を抱いていないという前提が必要だが).貧困という悪いレッテルを回避したいが,目の前で起きている貧困では自分が経験したことも含まれている場合,「自分と同じ経験をしている人は貧困ではない」と認識することで合理化している,ということである.

 

ここで取り上げたTweetsを「過剰」と考える人も少なくないかもしれない.これに反論できるデータは多くはない.なぜなら国内のデータにおいて「どのような人を貧困と思うか」と問うた調査が見つからないためである*10.個人の道徳や知識に照らせば過剰な考えとも取れるが,そのために必要な反証ができないため,ここでは保留する.

今後,こうした言説を量的に分析することも可能だろう.たとえば他のTweetsから政治的な立場をクラスタリングし,それによって貧困に対する意識も構造的に分断されるのか,とか,あるいはその他の価値観(労働観や結婚観など……)との関連はどのようなものか,などを考えると面白いかもしれない.

 

何日かかけているうちに何が言いたいのかわからなくなった.とりあえずここで投下しとこう.

*1:私の知る「ちょっと厄介な」社会学の人には「なぜ私がこの研究テーマを選んだのか」ということにこだわるタイプが一定数いる.正直な話,そんなことを語るのは飲みの席で十分であるにも関わらず,フォーマルな場でそれを語りたがるのはなぜだろう.至極無意味だと思う.

*2:たとえばこの論文(Callens and Croux 2009)でもそのように前置きをした上で,限定的な記述・説明を可能にする社会理論を提示している

*3:どのような記述・説明が「良い」かはまた別の記事で書きたい話なので,今回は「単純明快に」程度の意味合いでとどめておく

*4:このあたりの立場はDurkheimの方法論を過大に解釈した結果こういうことになった.

*5:他にも人間開発指数相対的剥奪指数など,山ほど存在する.

*6:こう書くと胡散臭いが,割と真面目にやったつもりである.利点も困難も考えた上で使ったと自負している.

*7:ただしOECDやEurostatでは近年「あくまで低所得の指標であり,この水準が生活水準の低さを直接示すものではない」と述べている場合もある

*8:こういう曖昧な話を論じるから科学的とは言い難いのだが.

*9:社会学者の阿部彩(2014)はこうした考え方を客観的に社会調査によって測定することを試みている.

*10:『世界価値観調査』という調査がある.名前の通り様々な価値観について聞いている国際調査で,日本では1995年に「個人が貧困であることの責任帰属」について問うている.その結果は半分が自己責任であるという結果であった.20年近く前の結果ではあるが,示唆はあるかもしれない.